世子は何度か

投稿者:User icon mini carekillty 投稿日:2016/03/21 12:40

瑠璃色の官服を着た青年は、そう宣言し、手元に開いてあった『大學』の書を静かに閉じた。
彼は朝廷の重臣である弘文館(ホンムンガン)大堤学(テジェハク)ホ・ヨンジュの息子、ホ・ヨムである。
『大學』のfree ecig色褪せた表紙をそっと撫でながら、ヨムはちらりと上座を窺い見た。
「ふう……」

書物の積み重なった文机に頬杖をついて、屏風を背にしたその少年は、そのようにしきりに溜息をついている。彼の名はイ・フォン――この国の正当なる次期王位継承者、すなわち世子(セジャ)に封ぜられた少年である。
講義の間中、今日はずっとどこかうわの空で、溜息ばかりついていたフォン世子。ヨムが講じた『大學』の内容など、右耳から入って左耳の外へと流れていってしまったことだろう。
――いったい、どうなされたのだろう。
尊い教え子の物憂げな様子に理由を見出だせず、ヨムは首を傾げた。
「世子様」師に呼ばれて、ぼんやりと中空を眺めていた世子は我に返った。居住まいを正し、慌てて書物をめくる。
「今はどこを読んでいた?」

「世子様、今日の講義は終わりました」
「ああ……もう終わったのか」
「はい」
間の抜けた表情で『大學』を閉じる世子に、ヨムはそっと頭を下げて問う。
「恐れながら世子様、本日の安利呃人講義は少々退屈でしたでしょうか」心を見透かしたようなヨムの問い掛けに、世子はうっと言葉を詰まらせる。
「け……決して、退屈などではなかったが」
「ですが、お心が此処に在らずの様子とお見受け致しました」
「わが師は、何でもお見通しだな――」
世子は降参したように諸手をあげた。
「すまない。正直に申そう。今日、そなたが言ったことを、私は何一つ聞いてはいなかった」
ばつが悪そうに世子は苦笑した。だがヨムは別段咎める様子もなく、むしろ気遣わしげに目を細めた。
「――何か、お心を悩ませるものがおありですか?」途端に世子の頬がほんのりと染まった。おや、と内心ヨムは不思議に思った。
「ああ、ある。私の心を悩ませるものが――」
世子は顔を伏せ、龍袍の胸元をつかんだ。その悩みの種を思うと、息が詰まるのか、少し苦しそうに眉根を寄せる。心を落ち着けるように、世子は何度か深呼吸をした。失意もあらわに呟いた。
「決して、私の手には入らぬものだ。――父上がそう諭された」
「……王様が?」
ヨムは形のいい眉を僅かにひそめた。――この国の世子たるお方が、決して手にできないもの。それはいったい何であろうか。稀代の秀才は、この難解な謎掛けに首を傾げた。答えが自らのすぐ近くにあることなど、今はまだ知る由もない。

玉座に腰掛けるフォン世子の眼差しは、踊り子たちの舞に夢中なホ・ヨヌの姿に釘付けになっていた。
――あの娘を見るな、と自らを律しようとすればするほど、ますます目が離せなくなる。
花とたわむれる蝶のように愛らしく、冴え冴えと地を照らす月の安利傳銷ように聡明なあの娘。
出会って日の浅いフォンは、まだヨヌのことをよく知らない。だから彼女のことが知りたくてたまらなかった。ヨヌの好むものならなんでも知りたかった。書物や詩、食べ物、花、色までも――。
妹のミナ王女や、ヨヌの兄ホ・ヨムが、フォンは心底妬ましかった。彼が知らないヨヌの様々な顔を、あの二人ならきっと見ているに違いない。
フォンは箸を置いた。宴のために用意された華やかな料理は、まったく味気がなかった。水刺間の尚宮たちは料理の腕が落ちたのではないか。近頃は何を食べてもこうだ。
料理だけではなかった。花も鳥も簪も月も、目に見えるものは何もかも、ヨヌの美しさを前にすべてかすんでしまう。
ヨヌこそがまさにフォンにとっての至高の存在だった。それ以上のものは、この国の天上天下、どこを探しても決して見つけることはできないだろう。

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